昭和43年01月22日 朝の御理解
  最初2分50秒無音


 信心しておかげを受けて頂くと、天地の親神様が私共氏子の上に、そういう願いを持っておられます。信心してどうぞおかげを受けてくれよと。その信心と言うものはどう言う事を、どうぞ信心してと仰っておられるのか。またはおかげを受けてくれよと仰る、おかげとはどう言う様なおかげか。ここんところをですね、皆さん今日は本当にしっかり、あの共々に頂きたいと思います。
 どうぞ解らない所がございましたら、そのうどんなに限りなくても良いですから、質問をしてくださってですね。そして本当の信心皆さんしいていただきたと思います。例えて申しますと。今日はですね、まいうなら、今までの私くしの信心の行き方と言うかあり方と言う事ではなくてです。それよりもっともっと本当な事をなんです。ですからここんところをそれこそいわば初めて聞かれる。私も初めてですから。説明不足になると思いますから、けど私しの心の中にゃは分っている事。
 本当にこう膝突き合わせて話合いでもさしてもらいようると、段々本当な事が出て来る、頂けるとこう思います。例えばあのう乳児が育ちます。赤ちゃんが育ちますのに。母乳を持って育つ赤ちゃん。それから作り乳。あんなとがございますね。ミルクがございます。ミルクで育つ赤ちゃん。母乳で育つ赤ちゃん。私し何と言うても母乳で育つと言う事が、是は本当な事だと思うです。今まで私共もですね。そのミルクで育てて来たと言う様な信心を頂いて来たと思います。
と言うのはですね。まぁ世間一般にも申します様に。艱難難所、珠にすると言った様な言葉がありますね。そのう艱難、難儀と言うものがです。人間をいよいよ立派なものにするとこう言う訳なんです。いわゆる教祖もそこのところを、難はみかげと言う風に仰っておられます。その難、難儀というそのものが、人間の本心の玉を磨く材料とかになっておる訳で、私しも実を言うたら、私自身がその艱難の為に、今日まで育てられてきたと言う感じでございますね。
ですからそのうそれが、それによって育てられないとするなら、これはもう艱難なら艱難だけで終わるのです。難儀は難儀に、難儀によって育てられなかったら、その難儀は難儀のままなんです。あれは御大師様が御作りになったんだと言う事でございますけれども。「いろは」48文字ですね。いろはにほへとちりぬるお、よたれぞ。なんですか、と言う様にですね。私はこれは人間のですね。本当に悲しいまでの、はかない、一つの詩かと思いますね。詩だと思います。
もう人間のはかないはかない、人間の生きていくその実態をですね。詩にしたものだと。いろはにほへとちるぬるお、よたれぞ、なんでしたかね。つねならんというのがですね。その一番最後のところにですね。あさきゆめみしえひもせずん。と言う所。もう人間はですね本当に幸せを願わない者は一人もいないのです。本気で願う事は願うんです。幸せになりたい幸せを願いたい。そして「いろは」48文字に現れておる様な、一生をお互いがほとんどのものが終わっておるのです。
そして一番最後の、それこそ「あさきゆめ」であった、それこそ果かない夢であった。幸せとは幸せとはと言いながらです。場合にはその幸せとは。金さえあらば。健康でさえ人間はあれば。と言う様な事だけで終わって、そして実はそうではなかったと、それこそ果かない果かないその願い。あさきそれこそ浅い浅い夢を描き続けて。いわゆるさいごの「ん」というひと気張りであの世に行っておるということ。こう言う様な状態で終わっておるひとが、まぁ殆どなのでございます。
教祖の神様ご出現と言うのはですね。こういう例えばはかない一生であってはならない。人間は神の氏子としてのです、本来神の氏子としての生き方あり方になってさえくればです。そのはかない世ではない、本当の意味での幸せの生活と言うのが約束されてあるのである。その神様の約束も、私共がいわゆるその夢を追う様に、はかないものばかりを追っておる。吹けば飛ぶ様なもの。使えばなくなるもの。必ず一度は壊れるもの。そう言う様なものに頼っておる。家だ、蔵だ、財産だ。そう言う様なものでは人間の幸せではない。
最近私しは、この27日28日に須田先生をお迎えすると言う事について、いろいろ考えさせられるです。またもう見えられる前に、既に様々な縁でおかげを頂いております。いったい須田先生という先生はどう言う様な信心をなさり。どう言う様なおかげを受けてこられた方であろうか。私は17,8年前に一遍お話を頂いて、そのその時の受け心と言うものが全然出来ておりませんのに、ここ頂いたのでございますから。もう須田先生の信心を全部頂いておる事はできませんのですけれども。
そのときの講題が「信心は御用なり」という講題であった。信心は御用だ。私は真っ向からその事に対しては反対です、そげなことじゃない。信心は御用じゃない。信心とは本心の玉を磨くもんだ。信心とはもう日々の改まり改まって行く事だ。そしてそこから生まれて来る、有り難い有り難いというものがです。そうさせて貰わなければおられないと言う事になって、御用になって現れて来る。けれどもやはりそのう、須田先生の信心は御用なりというのはですね。そう言うところにあったんだと言う事を今にして思います。
御用しなさい、御用しなさい、御用すれば助かる。と言う風に頂いておった。だからそげなこっちゃなか。どんどんお供えさえすりゃ助かる。一生懸命教会の御用さえすりゃ助かる。そういうそういうもんじゃない。所が先生の話を頂いておると、自分自身がそうなさって来たばっかりだったと思うです。全国あっち転々として教会を変わっておられます。このお努めの御用かなんかで。そしてそこのそこの教会で。もう本気で打ち込んで御用なさったお話じゃろう。と承ったと記憶しております。
それは私しは思うですね。本当に私共がこの世に生きて来ると言う。ここに生まれてきたと言う事、それは一つのこのこの世にですね、私共はそのう還元をせにゃいかん。天地にねお返しをする生活、ある徳もの学者でもあり、徳もの方であるとかであると言う方が言っておりますね。お百姓さんがね。あの米麦をとったそのわらである。殻であるところのもの、必ず全部天地に返す。還元していけ。天地に返す、それで立派に作物だ出来ると言った様な事を言われたと言う様な話を聞きましたですけどね。
その還元がですね、もうほんとうに出来ると言う生活。先月なんか青年会の会合かなんかの宴会の時に、若先生が歌ってありました。あのう雷さんは馬鹿な奴だよと言うのがあります、あんな歌がありましょうが。それの替え歌をなさっております。それを私しが今日少しまた変えてみたんです。ちょっと違うんです私の歌よったのとは。「信者さんは馬鹿なもんだよ、おかげばっかり願う、わたしならおかげの元願う」信者さんはもう幸せになる事ばっかりを願う。そしてその目先のその事が叶えば、いかにももう幸せになるように思う。はぁ病気を治して下さい。どうぞ金銭の御繰り合わせを下さい。どうぞこういう難儀な問題がありますから、どうぞこのところのおかげを頂かして下さいと言うて願う。
実に信者さんは馬鹿なもんだよね。わたしならその、そしてそれを受ける。健康なら健康のおかげを受けるけれども、いやこれで幸せではなかったということを、次におっしゃった。そうではない人間の幸せは、そういうおかげの元を願う。私はこの須田先生と言う方はですね。そういう元を。そういう元を一番初めから求められた方だと思うですね。もうこれは私し、まぁ甘木の平田さん当りも、もう本当に全教の平田と言われる位にたいした。おかげを受けた方でありますね。
皆さんも御承知の通り御信心の出来た方なんです。今から私し共でもそうなんです。所が私しは平田さんの場合はですね。もうどこまでもいわゆるミルクが育てた信心なんです。私今日御神前で頂きます事が、あの牛のマークがついたミルクがありましょうが。何とか言う。それで牛のお知らせはめぐりと仰る。いうならば私でも平田さんでもです、いわゆるここでおかげを受けたという人達はですね。もうほとんどの人がです、そのめぐりがその人の信心を育てておるんですよ。
いうならば艱難が難儀を珠にしておるんですよ。その難儀が難儀がもう苦しゅうてたまらんから、神様と言うたんです。そして改まりますから、磨きますからと言うてそのおかげを受けて来たんです。その点私しはその須田先生。それは私は本当にその信心は存じ上げませんですけれどもです。17,8年前に頂いたそのことから思うてみて、そういう信心をなさった方だなということを思うのです。須田先生はですね本当に母乳で育てられた信心という感じです。何故って言うとですね、もう非常に奥様が熱心な御信心なんです。
それでもう大体がその科学者ですからね。ですからその科学と宗教なんかていうものは、もう対峙したもののように皆んな考えてあるですからね。お前がそのそういう迷い信心、つまらない信心ばっかりするというのが、奥様に対するところの見方だったらしいんです。ところがその奥様を見ておるとですね。奥様が段々変わられるので驚いた訳なんです。そして一遍見てやろうと言うのが、御本部参拝の一番始めだった。ここはいつも須田博士夫婦が金光様を3時50分にお迎えなる場というぐらいに場が殆ど決まっておる様に。
いつもそこの場から、これはもうどこに居られても3時50分の金光様のお出ましを拝まれる。講演なんかでこうして廻られるでしょう。回られてもそこでやはり御本部の方向いて、3時50分にはキチッとお迎えになるそうですよ。もう72歳かだそうですね。昨日私し竹内先生から伺いましたんですけれど。ですから私共が伺ったのはだから50幾つかのときにおありになったことになります。そしてその講題が信心は御用なりと言う事で。それこそなん時間と言うお話を頂いたんですけれども。
それを今にして思い出させて頂きますとです。はぁ須田先生こそですね。本当に御用で育てられなさったひとだなぁてことなんです。信心のいわばそもそものところがですね。奥さんのその変わり方が素晴らしい。これはちった普通で言う信心とは違うかも知れん。一遍御本部に行ってそのう、教主という人金光様にもひとつ、まぁ金光教の信心を見てやろう、金光様を見てやろうという気持ちでお出でられたと言う事ですね。
所がですね、金光様がこうしてお通りになる道でこうしてお迎えになっとられるんですけど。もうそれこそ須田先生の前でですね。金光様がですね私が金光摂胤ですよと言わんばかりにですね。そちらの方を御向きになったそうですよ。もうその時の事をいよいよ述懐しとられますがですね。こりゃ大した方だと思ったと言われましすね。いうならばもう縮上ってしもうた。心が。金光様にふれられたと。見ようと思うたら見せなさった金光様に対してですね。こりゃあ大したお方だと思うて、それから本気で金光教の信心を。
いわゆる学者ですから、学問の上でももうあらゆる検討を加えられたらしいです。もう沢山の書物の類は、外の宗旨宗派の宗教もその研究され。そして金光教の信心の。これはいよいよ素晴らしい教えであり、素晴らしい宗教であると言う事を突き止めから、修行が始まる。全然私共と違う。そしてもう始めからいわゆる教えを、いわゆる教えの実践者になられたと言う事なんです。いうならば先の歌の文句じゃないですけれどもです。いわゆる馬鹿話じゃなかったわけです。本当に人間の幸せの元であるその元を追及された訳なんです。
その元がです教祖の教典から、その元がもう絶対なものだ。不滅なものだ。素晴らしいものだと言う事を感得されたわけです。いわゆる私共でもうどうにもこうにも出来なくなってから。難儀になってから。そして初めて神様が分ったと、本当の神様が分ったと言うのじゃなくてですね。そういうところからその、おかげが受けてこられたと言う。なるほど須田先生にめぐりがあったでしょう。家のめぐりも身のめぐりもあったでしょう。様々な難儀のもという元はあったでしょうけれどもです。
もうそこから既に還元作用である所の働きが出来てきた。一番初めから人間がこの世に生まれて来て、この世の、いわうる神様のお喜び頂けれる生活と言う事なんです。だから神様がお喜び下さると言う御用は、もうおかげを頂くけんじゃなくて、当然の事当り前の事として、本気でその御用に取り組まれた。そこから信心は御用なりが生まれた訳です。信心は御用なりと言うのは須田先生が発明された言葉なんですよね。
それをただ間違えて信心は御用なりというと、お供えすりゃ、御用さえ頂きゃおかげを頂くと言った様な浅はかな事になってくるんです。それではない。もうもとのもとが分られて、その元の元が分らせて頂くためには、教祖のあの御教えを実践するよりほかにないとしての、いわゆる本当の実践者、本当に教祖の信心に直参された、それをあの熱烈な修行精神を持って今日まで貫いておられると言う事は素晴らしい。もうこんくらいおかげ頂いたけん信心が弱くなると言った様なもんじゃないのです。
暫くお参りするおかげを頂く、やれやれとそこに腰かける。そういうもんじゃなかったと言う事。いまに例えば3時50分のお出ましを。これこそ1日だって欠かされた事のないと言う程の熱烈な信心なんです。ですから本当に皆んなの信心を見て、本当に激しいで恐れる程に歯がゆい思いをされる事であろう、だから私しの信心を聞いて下さるならば、見て下さるならば。どこにでも行こうと言う様なご用精神、今度3月の10日ですかね。
分化ホールにこの須田先生の、お子さんである所の、須田竜太郎と言う先生が、こんど久留米に3月に見えます。だからその先生のお話し頂き、私一遍もお会いした事も無けりゃお話を聞いた事もないのです。いわゆる信州大学の大学教授であります。ちょうどその3月10日はですね。信州大学の卒業式に当るそうです。ところがこちらからも御用もして頂きたいと言う願いも3月10日なのです。ですからそがなこと全然問題にしておられない。もう御用第一としておられる訳なんです。
ですからこちらの大学の方をほうってから、あの久留米の方に参りますと言う御返事があったと言う事でございます。そういういわば大学者であるところのその先生方は今でもです、何処に居られてももちろん3時50分のお出ましを拝まれると言う事だけではなくてですね。もう必ず水行、朝お水を掛って金光様をお迎えになる。須田竜太郎先生、息子さんです。如何にその須田先生の御夫婦の信心が、息子さんにそのままうつっておられるかと言う事が分りますね。いかにその素晴らしいかと言う事が分るんです。
そしてその本当に御用を一筋に生き抜いておられると言う事。私共はこの様に修行受けさせて頂いて、ただいろはにほへとの中にです。あれをとるかなしいかな、かなしいまでのです人間ひではなくてですね。一生もう最後もう人間の終着に向けて近づいたからです。はぁ自分の求めてきた者は、浅はかな夢のようなものであった、うたかたのような泡のようなものであったと気が付いたってもう遅かということ。
幸せと言うものはこんなもんじゃなかった。なら信心を頂いておっても、幸せのおかげ頂かして下さい幸せのおかげを頂かして下さいと言うて、病気でもしたら災難除けの信心ばぁかりして来た。そう言う様なものではなく、本当の幸せの根であるところの、その願いなのです。喜びをもって根とすると言うです。その根なんです。幸せの根をです求めずして本当のおかげが受けられる筈がない。須田先生はそういう学者であられるために、そういう様々なところを通られたけれども、その一番初めからがその、根を追及された。
人間の本当の生き方と言うのは、どういう生き方をする事が本当なのか。それに教祖の御教えを見てそれこそびっくりされたんですよ。ここにこういう生き方があったんだと言う事を発見されたんです。そして早速いわゆる金光様への信心、金光様へのその憧寧心と言うものがとにかく燃えたったんですね。そして現在続けておられる様な信心がなされる。信心は一生が修行じゃと仰るが。そういう修行に本気で取り組んでおられる。
ですから須田先生にもめぐりもあろう、懺悔の元もあったろうけれども、そう言う様な例えば信心の中にはです。もうめぐりの出所がない。私共の場合はおかげを頂いてやれやれとこしがきるからまためぐりがでてくる。まためぐりが出て来て不幸せ、難儀になるとまたそこのところ丁度いうならば、ここが腫れたからと言うてここに膏薬はる様なもの。そこがようなったらつぎのがまた腫れとる、と言う様な事。これは人間の弱さです私共、私しがそうでございましたけれどもです。
 難儀に直面するたんびにです、そのめぐりの現れがここに難儀として現れておるのだから、このただはりを頂くために、それを合掌して受けて行く。難はみかげ私しにはもう難はない。私はこう言うて参りました。難の様に見えるのは神愛。神様のおかげを頂かせてやりたいばっかりの御心の現れだと。こう言うて来ました。けれどもそのそういうですね。難はないという所に難を認めておるのです。私はそれは神様のただ愛情の現れだと言う風に受けておるだけのことである。だからそういう難が私しを育ててる。
そういうめぐりが、牛のマークがついとるミルクが私しを今日まで育てて来たと言う事になるのです。ところが須田先生の場合にはもうその人間のですね。もう人間本来の値打ちと言うかね、私共はこの世に生を受けさせ頂いた。もうそこんところからです、何のためにこの世に生を受けて来たかと。天地に還元するためにこの世に生まれて来た。いわゆる天地の親神様がこの世にお喜び頂ける。御用の出来れることのために。人間はあるのだと生活全体があるのだと。
全然出発点が違う、そしていわゆる御用一筋に生き抜いてこられた。それでいて教祖の御教え実践者であると同時にそういう熱烈な信心修行精神と言うものが、いつも須田先生をめぐりの出所のない様な。金光様の信心しとれば。それこそ病気はしませんよとそん時言われたんですけね。私は今でちゃその言葉の素晴らしさに驚きました。めぐりが出ようがないです。言う事は金光様の信心しとれば、お金の不自由する事は絶対ないですよと言う事と同じ事なんです。
そう言う程に素晴らしい信心なんです。金光様のご信心とは、それをお金に難儀するごとなってから始めて解らしてもろうたり。身内に痛い痒いがあって初めてそれを受けて、合掌して受けて行けと言われ合掌して受けん。こうしてめぐりのお取り払いを頂いておると言うてそれを受けんというのが、私共のまぁ凡人の信心姿であるとこう思うのです。けれどもここに一つ本当に私共が心に開かして貰ってですね。そういうめぐりの出所がないほどの信心があると言う事。そのためにはいかに、教祖の神様が教えて下さる。
実意丁寧神信心と言う事が大事かと言う事が分ります。生活を疎かにしちゃならん。いまの今日様が仰られます。生活の現場においてです。お互いが実意丁寧の限りを尽くさせて頂くという信心なんです。そういう信心をさして頂いておればです、人間の例えば不幸せと言った様なものが起きて来るすきがないのです。私はそれはですね。須田先生の御信心からまぁだお会いしない前からですね。まぁだこりゃもう本当に有り難い事になって来たのは、そういう先生が今度合楽に見えられる。
本当に目の当りに見ることが出来る。実際膝突合せその信心を聞くことが出来ると言う事はね。もうなんという素晴らしい神様のお引き回しになって来たことであろうか。そういう意味合いにおいて、私共もここに10何年間の信心が、今ならば事実の上に立った信心である。そしていうならば神様のおかげを頂かなければ、というところの他力の信心を体得させて貰う。そしてそこからあなたと私の合いの中から生まれて来る。合よかけよの信心がと言う様な事が段々分りかけてきた。合楽の方私共が。
そこへもっともっと本当は信心がですね。須田博士を通して今度頂けれると言う事は、素晴らしい事である。しかも、二日間に渡ってですね。本当に解らん所は本当に私し膝突合せてそこを質問させてもらい、聞かしてももらい人間の本当の生き方。人間の本当の幸せ、その幸せの元とは。須田先生あなたはどこにその幸せの元をおかれているかと言うて、お伺いが出来ると言う事がです。有り難いと思います。今日の御理解についてはですね。もう本当にあのう。もっともっとですまぁだそれこそ根のある御理解です今日の御理解は。
ですからそんならそう言う様な、めぐりの出所の内容な信心とはどういう信心か。ということが一遍ただ通りこうなんか私の心におかを、まぁ皆さんに聞いて頂いたのでございますけれどもです。信者さんは馬鹿のもんだよ。おかげばっかり願う、幸せばっかり願う。私ならばそのおかげの元である、幸せの元であるところの、その幸せの元を願う。その元とは何か。そこにです金光教の信心が。お道の信心がいかに素晴らしいかと言う事をまず把握せよ。誰が何と言うてもお道の信心だけは絶対なものであると言う事を。先ずは把握せよ。
そこには教学も必要である。修行も必要である。教祖の御教えをマスターすることも必要である。そこからです、のそこからの修行なんです。おかげを頂くための修行じゃない。そこからいかにその御用一筋のその、御用がですもう本当に当然のこととして、当り前の事として、この世に生を受けた人間が、もう当然そうあらなければならない事として。その御用が出来るかという所をです。お互いが把握してゆかないかん。そしてそれを生活に現して行かなければいけない、そういう生活の中からはもうめぐりの出ようがない。
そこに至った始めて難はないと言う事になるのです。難そのものも神愛の現れだと。言う頂くもう一つ向こうにです、須田先生の信心がある様に思うのです。私共が本当にそれこそはかない果かない願いをもって一生を終る。それこそ「あさきゆめみし えひもせず」そういう神様の目からご覧になったら。どんなに深い事を考えとる様であっても。人間の考えのそのあさはかさをです。そういう幸せとは幸せとは、おかげとはおかげを頂きたいばっかりで。一生を終わったらですね。結局本当の幸せは頂かんなりでしょうが。
これが幸せであろう、あれが幸せであろう。金さえもっておれば、健康でさえあれば、人間の家の中が円満にいきゃ幸せ。決してそれだけでは幸せではないて。本当にそういう幸せのその根であるとこの元である所の元を追及して。お互いがですずっとその「あさきゆめ」でない本当のところに信心の根を置いての信心を頂きたい。一生終わらせて頂く時にそれこそ「あさきゆめみしえひもせす」ということを幸せに合う事も出来なかったと言う事。そしてあの世に「ん」とひとつ気張り、してあの世に走って行くと言う事なんです。
是は人間としてこの世に生を受けた、いわば値打がひとっつもないことになる。それこそ、飲んで、食うて、ちょいということである。これならばどげな人間いや人間じゃない、どういう動物でもその事だけなら出来ておると言う事である。動物と人間、普通の動物の違いと言うのはそういう生活が出来れると言う事がげす。人間の値打ちであると言う事を分らして頂いての信心を頂きたいものだとこう思うですね。
  どうぞ。